1950年、ニューヨークヨットクラブはジョージ・スティアーズにアメリカの設計を依頼しました。
1851年 英国ロイヤルヨットスコ−ドロンは第一回国際万博記念の記念行事としてギニアハンドレッドカップレース(ワイト島の周りの53マイルのレース)を主催しました。米国から唯一参加したアメリカは14隻の英国をヨットを相手に圧勝。8月25日に、ビクトリア女王自身が船を訪問し銀尾カップを贈呈。 以来、このカップはニューヨークヨットクラブが”このカップの持ち主は全ての挑戦を受けなければならないとして、アメリカズカップに改名さ、現在もヨット界の世界最高峰のレースとして現在に至っています。
1863年までの12年間、アメリカは多くの所有者を転々とし、米国ニューポート(ロードアイランド)に戻って、海軍士官学校の練習船として就役。
1870年15のエントリーの4番目を終えるところでアメリカはアメリカズカップに参戦。
1901年アメリカは51番目、最後のレースに参加。後の15年間、彼女はボストンでほこりをかぶることになりました。
1921までに、アメリカは多くの所有者を転々とした後、再度アナポリス(メリーランド)の海軍士官学校に戻りました。
1940年、アメリカは第二次世界大戦の間アナポリス海軍士官学校の物置小屋で荒廃したままになり、時のルーズヴェルト大統領は、アメリカを海軍博物館に変えるために10万ドルを議会に捻出するよう働きかけましたが、戦争が優先され残念ながら計画は白紙になってしまいました。1942年に、大雪の下で小屋が倒壊。アメリカは大破してしまいました。木片は回収され海軍兵学校博物館にあるこの船の模型を作るのに使用されました。